Someday Somewhere

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時計の病院

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主人が使っていた腕時計の電池がなくなってしまったらしく動かなくなった。 それも動かなくなってから暫くの間そのままほおっておいたらしい。 家の近くの時計を修理してくれる所に持っていったら、電池の問題だけじゃないようなことを言って修理してくれなかった。 国産ではないし、下手にいじって壊してしまったらと思ったらしい。

どこに持って行って修理してもらおうかと思っていたところ、「時計の病院」というのを発見。 家からそんなに遠くもなかったので再度挑戦。 その腕時計を持って行った。

店の人に見せると、「電池が切れているだけではなく、三つほど付いているボタンの一つが押せなくなってしまっている。 こうなると、このメーカーを扱っている店に直接持って行くか、あとは銀座にあるスウォッチの店ならこのメーカーも扱っているので修理してもらえるかも」な どと言い出す。 う~ん、「時計の病院」をネットで見たときは結構なんでもこいみたいな感じに思えたのだが・・・。

その横では主人が「電池がないからボタンを押してもうんともすんとも言わないだけで、電池が切れるまでは普通に使えてた」と言ってるし(主人は自分でこういったやり取りができるほど日本語が話せない)。 結局、電池だけ交換してもらうことに。

15分ほど後、時計を受け取りに行く。 電池交換だけだったので安くてすんだわけだが、問題のボタンの方はというと、動くじゃない。 確かに、使えない機能が一つだけあるみたいだけど、それ以外は使える。 主人はというと、「ほら、見たことか」といったオーラを出しながら、自分で時間をなおして腕につけていた。

最近よく思うのは、マニュアル通りに何かをすることはできるんだけど、マニュアルにない事に関しては、できない、というかやろうとしない、ちょっと 頭を使って考えてみるということもしないといった人たちを多く見かけるということ。 それもそのはずである。 マニュアルに無いのだから、万が一何かあった場合の責任はどうなるのか、と考えてしまうと怖くて何もできないだろうし、怖いというより責任を取りたくない のだろう。 責任をとらずにすむ方法、そう、マニュアルにあることだけするということ。 それ以外は何だかんだ言って引き受けない。 マニュアル通りにできることが仕事のできる人とでも思っているらしい。 自分の頭も使わず、柔軟な考え方もできないことになんら恥ずかしさを覚えない人たち。 マニュアル通りにできるということは、そこでやっと土俵の上に立ったということだけで、プラスマイナス0、なのだが。 なんだか情けない世の中になってしまったと思ってしまう。